ある彫刻作家の話に 【コラム】

NO IMAGE
先日、ある彫刻作家の話に心を打たれた。
 日本と韓国を股に掛けて芸術運動に携わっているとのことだが、さして有名な人物ではない。どちらかといえば貧しい芸術家だ。
 きっかけは「奈良を考える」だった。かつて日本が国として姿を整えるころ、漢字や仏教という大陸の文化を運んでくれた朝鮮半島の人々。大雑把に1500年ほど前のこと。
 気が遠くなるほどの昔だが、仏像や建築物、あるいは「古事記」「日本書紀」「萬葉集」という書物があるから、遡って考えられる。
普段はそんなことを意識しないが、漢字という意思伝達の共通基盤があり、仏像や寺院という形あるモノがあるから、手に取るように物事がワカル。
 だが、現代韓国人の多くは「奈良」を知らないという。「東京」や「大阪」、「TOYOTA」や「SONY」に憧れても、韓国語の「ウリナラ(われわれのクニ)」が反映した「ナラ」には興味がない。
 時の隔たりがそうしたのだろう。いささか寂しくもある。とはいえ、手に取ることができるモノがあるのだから、消沈することはない。見て、触って、知れば、膨大な忘却の時間は埋め戻せる。
 翻って、今を生きる我々は何をしているのか?1000年、1500年の未来を生きる我々の子孫に、形となって遺すもがあるか、そうしたものを作っているか――芸術家が発した言葉である。
 「何もなければ、イマの我々は未来に記憶されもせず、存在の証しすらないんだ」と。
 「貧しい」と書いたことが恥ずかしくなるほど、豊かな生命力を感じた。芸術家なればこその壮大な発想だが、だれもがそれを具現化できるわけでもない。
 チマチマと(これも何やら韓国語風だ)慎ましく誠実に生きて子孫を繋ぐ。これも立派な生き方だ。そんなに立派な多くの人々とともに同時代を生きて、チマチマと不善を為す。ウーン、悔恨の人生を共有しているのだな。
 僅かな利益に身を削る業者に胡坐をかく役人か、巨利をむさぼる業者のおこぼれに与る役人か。そこら辺りを暴かれて、腹を立てるのがどれほどミミッチイことか、判るよな。
 スカイツリーは1000年後に残っているかな?バベルの塔って、絵では見たことあるけど、実在したのかな?どこにあったのかな?
 なんだか妄想めいた、茫漠なハナシになったが、これまた一つの斜めの視線だな。(醒)

コラムカテゴリの最新記事