広島県尾道市で民間人校長と教育次長が相次いで自殺した 【コマンド】

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 広島県尾道市で民間人校長と教育次長が相次いで自殺した。死者を悼む気持ちを失ったわけではないが、彼らが何故死を選んだか、理解に苦しむ。
 そもそも、この制度は、教育界の閉鎖的独善に新風を引き込むのが目的だ。門外から土足で乗り込んでくる輩が、壮絶な敵意に迎えられることは、大前提であったはず。その、戦いの場でなぜ死ぬのか。死んで逃げ出したのか、死をもって何かを告発しようとしたのか。駄々をこねて泣き喚く子供の行為と、どれほどの違うだろうか?
 大阪で初めての民間人校長である府立高津高校の木村智彦氏(56)が今年の六月、読売新聞の「論点」欄に寄稿された「民間人校長の苦悩と使命」を読み、ある種の爽やかさを覚えた。
 しかし、住友金属工業和歌山製鉄所副所長や関係会社役員の経歴を持つ木村氏にして、「現実は厳しい」という。氏の論(一部略)を少し紹介する。
 校長に民間人を据えようという意図はいい。生徒、保護者も学校への不満は大きいから、民間人校長に期待する。校長も意欲を持って転身し、一生懸命頑張ろうとする。しかし、校長が頑張れば頑張るほど教員側は当惑し、反発を強める。
 ある教育専門誌に載った校長経験者の記事に、こんな部分がある。「悪い冗談だろう。これほど専門性を無視して良いのか。校長個人への過剰な期待だ。人選はどうする。当たり外れの責任はどうする」と。ここには、通常あまり直接的に示されない教育現場のこの制度に対する本音が見える。学校に身を置いて感じたのは、教育界には部外者の想像を超えるような価値観がいまだに根強く残っているということだ。一言でいえば、本来業務である「教える」ことからかけ離れたところにエネルギーを使い過ぎているのである。
 そこは、現場だけの責任ではないにせよ、停滞した前例踏襲と行事消化を旨とする保守的な閉鎖社会であり、信じられないような思考・行動パターンが横行している。民間人校長の苦闘は、こうした文化を是とする人々との対峙であり、サイレント・マジョリティーに対する説得、意識変革への試みである。
 使命ははっきりしている。新しい感覚で学校組織を再整備し、課題解決型の目標達成集団へと衣替えさせることだ。透明性を高め、説明責任と結果責任を背負いながら、コストダウンを図り、品質を高め、達成期限を明確にし、顧客満足度を高め、結果を出すことである。生徒のために校長が頑張っている姿を見れば、生徒も保護者も必ずエールを送ってくれるーーと。
 結論は簡単、明瞭だ。死なずに、逃げずにやり抜いてほしい。(醒)

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